六道地蔵とお玉が池

お玉ヶ池

六道地蔵

精進池

箱根に地獄があった!

ここ精進池畔には鎌倉時代に箱根越えの道として開かれた道が通っていました。現在の「湯坂道」と呼ばれるこの道は湯本から浅間山、鷹巣山などの尾根を経てここ精進池畔を通り箱根権現(今の箱根神社)へと下るル−トでもともとは箱根権現を信仰した源頼朝が伊豆の走湯山や三島大社と共に参詣する二所詣(あるいは三所詣で)を行う際に参詣道として利用した物でした。以後歴代将軍らに引き継がれこの道も整備されて行きました。しかし何と言っても険しい山道、しかも道中も高地にあるこの精進池周辺は、時に霧が立ち込め,荒涼とした風景が広がっていました。このころ箱根を越えた都の歌人、飛鳥井雅有は紀行文「春の深山路」で、この付近の事を「此山には地獄とかやもありて、死人常に人に行あひて・・・」と記しています。旅人にとってここは「この世の果て」、地獄だったのです。どうやら、此の地に数多くの石仏や石塔が造られたのも、そんな思いが背景にあったのかも知れません。

元禄15年(1702)4月27日伊豆大瀬村太郎兵衛の娘お玉は関所破りの罪で処刑されました。お玉は奉公先の江戸新田嶋から国元へ帰る途中手形がないので箱根関所を通る事が出来ずに裏山を通り抜けようとしたのです。処刑はお玉が木道をそれて裏山である屏風山に踏み入った坂道の所で行われ、お玉の首を奈津那ヶ池で洗ったと言われています。このため何時の頃からかこの池がお玉ヶ池、お玉ヶ坂と呼ばれるようになりました。

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